八十八

学習塾から来た「田植えをしよう」というイベントのチラシ。
子供は「面倒だからいかない」という反応をしていたのだが、
もう二度とない機会かも…と思い、強引に二人分申し込む事とした。

田んぼは神奈川方面にあり、自宅から電車とバスを乗り継いで
1時間少々という距離感だが、子供には携帯もゲームも禁止したので、
風景を見る、電車の中の人を観察する、読書する、父トークなど
普段あまり選択肢にない限定メニューで過ごすこととなる。
この辺含めてかなり渋っていたが、電車に乗ってしばらくすると
いつもと違う時間帯の電車、路線、空間など彼にとって全てが新鮮であり、
単なる移動が、徐々に非日常のイベントに変化していったようだ。

現場に着くと、コンビニはおろか自販機もなく、トイレまで往復40分かかる。
「もう買う事は出来ませんよ」と言われるといつものペットボトルが
とても価値のあるモノに思えてくる。熱中症になったらやばい、
無くなったらもう買えない、でも飲み過ぎたらトイレに行きたくなる、
という焦りが巡ったが「必要な時に必要な分だけ飲もう」とルールを決め、
結局二人とも帰りの電車まで飲み干すことはなかった。

田植えの会場でNPO法人の方からの説明を聞いて知ったのだが、
肥料や農薬は一切使わない、そして水も人工的には引いてこない、
本当に自然の状態のままに近い田んぼであり、
機械が入る事が出来ないゆえに全て人の手で行うしかなかった。
初めての田植えはとても地味でしんどい作業であったが、
自分の手で垂直に立てた20センチほどの苗が半年後に稲となり、
お米として収穫できるようになるのはとても感慨深く、
不ぞろいな線上に並んだ苗が、参加者の達成感を表している様だった。
少々大げさかもしれないが、一粒のご飯を食べるまでの長い道のり、
まさしく「八十八の苦労」をしている農家の方の思いに触れた気がした。

乗る、買う、何かを飲む、食べる、そして誰かと過ごす。
日々当たり前になってしまっている事が、実はとても尊い事、
誰かの努力によって支えられているのだと気づかされる一日だった。
快適さや便利さがすぐそばにあると、その存在の認識が薄くなる。
家族は最たるものだが、会社でもそれは起こりやすいことだろう。
顧客も信頼も会社の看板も、存在する事が前提の様に扱うが、
それぞれが感じている「当たり前」にはほとんど根拠は無く、
何となくの日々を繰り返すうちに、大事なものを突然失ってしまい、
それが二度と戻らない事に初めて気づく。
茹でガエル状態っていうのは、こういう事なのだろうか。

帰りの車中で「稲刈り編も行きたい」と子供が言ってきた。
「季節も巡り、肌寒くなる中、俺は往復40分に耐えられるのか?」と不安になったが、
子供が親と出かけてくれるのは小学生くらいまでだと思い返す。
まさしくこれも期間限定の非日常、当たり前の事ではないのだ。
茹で上がることなく、この感覚を忘れずに持ち続けたい。

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