長男の夏休みも中盤。
今年は3週間という短期になった事で、
自由研究も任意となり、本人もやる気はないらしい。
「そういう時こそやる価値があると思うけどな」
と言ったものの「え?なんでー?」という反応。
親パワーを使って強引にやらせることは憚ったので、
最終的には本人に任せることにした。
上記のような親子の関係でもそうだし、
会社でのマネジメントでもそうだし、
例えば人材紹介の様な「アドバイス」を
する仕事などでも同じだと思うが、
何かを伝えて相手に動いてもらう場合、
単に正論を振りかざした、もっともらしい言葉、
借りてきた言葉を使うのは最悪の手だと思う。
それは、伝い手のエゴが詰まったもので卑しいからだ
(息子への自分の言葉は「親として」のそれ)。
問題の大小やレベルの高低は関係なしに、
まずは相手が主役であることを忘れないこと。
そこは自分のアウトプットに酔いしれる場ではない。
そして自分の頭から必死に捻り出した言葉を使うのが
どんな相手(子供)にでも最低限の礼儀だと思うし、
相手を動かすための必須要素だと思う。
言葉は使い方で次第で意味も威力も大きく変わる。
ちなみに、古来より言葉の持つ機能は
「論理(ロジック)」と「修辞(レトリック)」に
区別されると言われる。
いずれもアウトプットに大事な要素だと思うが、
仮に論理的に正しくても「伝える工夫」、
すなわち「修辞」が伴わないと人の気持ちには入れない。
政治家や活動家が言葉の力によって支持者を増やせるのも、
正しい論理の上に「伝えるための工夫(修辞)」があるからで、
もっと言えば「伝えたい」という熱量を帯びているからだと思う。
例えば、4年前のトランプの真意はどうあれ、
極めて単純なロジックの上に国民の不満に火をつける修辞を用い、
不利な下馬評をパワーでひっくり返した。
デジタルの時代だからこそ、もっと言葉の持つ力を信じ、
そのスキルと熱量を蓄えていかなければならないと思う。
人は決してロジックだけでは動かない。
あの後、息子と自由研究についての話はそれっきりだったが、
自分なりに考えて、アボカドの種栽培をやることにしたらしい。
植物好きな長男らしいテーマだと思ったが、
通常、アボカドの発芽確率は50%との事。
どちらの結果にしても、本人が自分で選択したことを尊重し、
言葉をかけようと思う。

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