対話と独り言

国立西洋美術館でやっていた「西洋絵画、どこから見るか?―
ルネサンスから印象派まで サンディエゴ美術館 vs 国立西洋美術館」に
滑り込みの最終日に行ってきた。数百年に及ぶ西洋美術の歴史とともに、
その時代背景を色濃く反映した作品群を「対比」させて展示していたり、
その作品が描かれた時代の歴史背景を端的に記載してくれていたりなど、
素人でもわかりやすく鑑賞できる工夫が随所にしてあった。
それでも、美術免疫のない自分にとっては難解なものが多くて、
小4の息子は入り口付近の作品あたりで早くもギブアップしていた。

「あの描写の細かさ、ほら、わかるでしょ?ネーデルランドの…」の様な
会話がそこかしこから聞こえていたので、ド素人の参戦は少なかった様子だったが、
知識のない人間からすると、絵画の対比や時代背景がちょっとでも記されていると
その絵を観るための重要な「手ががり」が手に入り、思考が大きく膨らむと感じた。
絵画の良し悪しはわからなくとも、自分なりに「だからぼんやりしてるのか…」とか
「この辺わかって欲しいんだろうなぁ」などの見立てが内側から出てくる様になり、
作者や作品自体との距離を近づけ「対話」できたような感覚になれた。

「好き・嫌い」とか「上手・下手」という自分軸だけで判断していた世界から、
「この人が描きたいのは…」という他人軸での思考に切り替わった状態ともいえる。
「芸術なんて感じるままに観りゃいいんだよ」というのも一つの真理かもしれないが、
主観的な好みの判断というのは結局のところいつものパターンでしかなく、
食わず嫌いみたいな条件反射とか狭い見識を固辞し続けてしまうのが人である。
絵画鑑賞という作品(本当は作者とか時代)との1対1の勝負に対して、
「よくわからん」と匙を投げる状態は、対話すら出来ていない不戦敗なのかもしれない。

しかし、よく考えてみると相手がモノを言う人間であっても、
上記したような「匙を投げた」様な対応をしてしまう事は多いのではないだろうか。
親しい人間であればあるほどその傾向は強くなってしまい、
瞬間的に思いついた自分軸で反応している事が当たり前になってくる。
本当は表情、言葉、雰囲気など、無数のヒントや手がかりがあるはずなのに、
それに気づこうとしなければ、そのやり取りは対話でなく独り言に近いと言える。
絵画も人間関係も対話しようとする姿勢こそが何よりも大事という事だろう。

ところで、上野は芸術鑑賞のみならず、安くて美味しい飲食店も多く、
不機嫌だった息子もお肉とはしっかり対話できた様子で満足していたので、
少し時間を置いたら美術館への再トライも可能かもしれない。
その時には、「対話のヒント」になる情報を仕入れて良い勝負をしてきたいと思う。

コメント