材を持って財を成す

つい先日、塾講師をしていた時代に勉強を教えていた当時の生徒だった方から、Facebookを通じて連絡がありました。
頭のキレも良く、もともと勤勉な姿勢と意欲を持ち合わせていたことから、あっさりと有名大学に決まり、労せず学生生活に突入した生徒でした。

その生徒からの質問で思い出したことといえば、授業中に「こんな事を知って何になるのか?」という純粋な質問でした。生徒に対しては大学に合格するため、という答えで良いのですが本質的な回答になっていないと感じていたことを思い出しました。

知性や教養といったものは知ったからといってどうなるものでもない。
ましてや、大学合格を果たした後であれば、得たものは水に流すというこの国において、
一過性の知識などは何の役にも立たない。そう思えてしまうのかもしれません。

ただ、自分の中では「知識(学術的なこと以外においても)は生きるために必要なことではない」という定義があります。
「知識というのは豊かになるために必要なことである」と考えています。

最低限度の生活を営む程度であれば、そんなに知識は必要ないでしょうし、むしろ知らない方が純粋に楽しめることが多いような気もします。
教養は自分自身、さらには自分と関わる人たちを豊かにするためにあるものであると考えています。
よく耳にするのが「そんなことを知らなくても困らない、生きていける」というフレーズです。確かにそうかもしれません。
ただし、残念ながら知識を蓄えていないのはもったいないということです。
いわゆる考える基礎力はあったとしても、考えるのに必要な材料、ものを知らない人はそもそも「考える」という行為自体が無意味ではないかとも考えてしまいます。
考えるための材料を、たくさん集めるという事は非常に重要な事であると思います。

同学生が連絡してきた理由は、私が転職支援をしていることを知って連絡をしてきたようです。難なく学生生活をスタートさせたのですが、どうやら社会人になって知識・教養の大切さがわかり、表層的な理解では通用しないと痛感したため、転職活動をしたいという内容でした。会社が変わっても、意識が変わらなければ、転職する意味がないことをお伝えし、改めて知識や教養を蓄え始めるとのことでした。

経済的にも豊かに、人物的にも豊かになるためには、知識が邪魔になることはないと思います。
ましてや社会人になってからは知識や教養のレベルで評価そのものが変わってしまいます。
豊かさを追求したくない人はいないと思います、だからこそあった方が良いものは、あるに越したことはないのです。

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