星野君の二塁打に捧ぐ

小学校の道徳の教科書から、「星野君の二塁打」という教材がなくなるという記事を読んだ。
今年はWBCが開催されたことでこの話が注目されたのかもしれない。
記憶にない方も多いと思うが、下記のようなあらすじだ。

野球の試合で、星野君は監督からのバントの指示に逆らい、
自身の直感を優先し、バットを振った。結果、彼は二塁打を打ち、チームを勝利に導いた。
しかし、星野君の行動は監督からの指示を無視した行為であり、
次の試合以降、出場機会を暫くもらえなくなったというストーリーだ。

この日の星野君は第一打席からずっと不振で、最終回の打席を迎えた。
彼は監督に「打たせて下さい。今度は打てそうな気がするんです」と訴えた。
監督は「打てそうな気がする」という言葉で、作戦を変える訳にはいかない。
ノーアウトなのでここは正攻法でバントでいくべきだという話があった上での二塁打だった。
監督は星野くんがすぐれた選手であることを認めつつも、チームの統制をみだしたことを理由に
当面の試合出場禁止を命じる。その事で、チームの戦力が落ちることは承知の上だった。
更にはそれで大会で負けたとしても仕方がないとまで伝えていた。
星野くんには監督の言葉ひとつひとつが心にしみたようで、意見を求められた星野くんは
涙ながらに「異存ありません」と答えている。

戦略的なゲームの中ではチームが一丸となり、勝負に勝ちに行くというのが当たり前のように思える。
時代なのかも知れないが、少年野球という背景の中、子供の希望に監督が指示を強いたという点が
子供の自主性を阻害するという理由で、道徳の教科書から削除されることとなったようだ。
この物語の中では、星野君はヒットを打ったので、話しが解りにくくなっているが、
仮に三振をしていたとしたらどうなっていただろう。
もしくは指示通りバントに成功し、走者を先に進めたものの、期待していた次の打者が三振していたとしたら。
「たられば」な話しになるが、監督はその時の状況を判断し、指示を出さなければいけない。
このストーリーでは皆がハッピーになることは難しい。
そもそも、読み手が各々の考えを持てる設定になっているからだ。
だからこそ、道徳として意味のあるものだったのだと思う。

一方で今年のWBC準決勝の日本×メキシコ戦での村上選手のサヨナラ打は、大きな感動を生んだ。
予選から準々決勝も含め、村上選手は誰が見てもスランプだった。
「村神様」とは程遠く、明らかに自信を無くしているように見えた。
その重要な場面で、栗山監督は村上選手を勝負の場に立たせた。
その信頼に応えるように村上選手はサヨナラのヒットを放った。
不振の選手を信じきった監督がいたからこその胸をうつストーリーだ。
星野くんも村上選手も勝利につながるヒットを打った。「結果」だけにフォーカスするのであれば、
どちらも勝利に貢献するという意味では同じと言える。
しかし、背景やプロセスが異なるだけで、周りに与える影響も違ってくる。

会社組織でも同じような事がある。
上司の指示を無視し、やりたいようにやった仕事が成功を収めることもあるだろう。
反対に、上司が適任だと思い、仕事を任せて社員が大失敗するかもしれない。
しかし、次に何かのプロジェクトがあったとき、任されるのは後者だろう。
そこには大事な顧客との信頼や、周囲の社員との連携があり、
その積み重ねで売上という社員の生活を守る基盤が作られるからだ。

野球であっても、会社であってもにしても、上に立つ者は常に状況を判断し、
最適の指示を出そうとしている。
会社組織の場合、その判断を間違うことが倒産となる場合もある。
一人の社員がルールを逸脱し、大きなトラブルを起こした場合、
その責任を辞めることで負えば済むというような話ではない。
仮にルール違反で成功を収めたにしても、それは一時的なものであり、
長い目で見た場合の成功とは言えない。

「星野くんの二塁打」に正解という解釈はない。
特に子供であれば、「ヒット打って試合に勝ったのになんで?」
となっても不思議な事ではない。
しかし大人の世界では同じような事が日々、起こっている気がする。
この教材からは、「たられば」であっても、様々な見解を汲み取れる。
小さい頃から、このようなストーリーでのディスカッションをすることは、
多くの視点でモノゴトを捉えられるようになる。
偏った目線でこのストーリーが消えていくことが残念でならない。

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