他者からの視点

先日、古い友人の紹介で外国籍の方をご紹介頂いた。
どうやら転職したいそうだ。
26歳になったばかりのフレッシュで活気のある人材。
現職は地方の学校で子供たちに英語を教えているそうだ。

転職の動機は教え甲斐のなさ、のようだ。
日本を取り巻く修学環境は、とりわけ先進国の中でもレベルが低いと思う。
これは日本人である自身も感じることである。
この環境下におかれた外国籍の人が、就業後間もなく感じるのであるから
これは割と深刻なように感じる。

彼の言う教え甲斐のなさというのは下記の通りである。
1、生徒の就学意欲の低さ(やらされている感)
2、カリキュラムレベルの低さ(何を子供に教えたくて勉強のプログラムを組んでいるのか)
3、先生のレベルおよび程度(生徒の裏返しで、先生も子供の将来や意識など意に介さず)

彼は、英語の必要性をうたい、子供にやる気を出させながら教壇に立つようだが
うまく伝わらない、先生の独りよがりと見られている事だそうだ。
それを周囲の先生にも相談しているものの、取り合わないようである。
もっというと、どうでもよいという風に感じるような態度らしい。
彼の教え方、伝え方という面も一部要因としてあるだろうが
ここで取り上げたいのはそんなことではない。

日本はこの教育システムを良しとして今日まで歩んできて、
時代の移り変わりにも応じることなく、旧態依然のシステムから変化する気がないと言う点である。
たしかに、これまでの日本は優秀であり、子供の学業レベルも高いと定評があった。
しかし、現代の子供の学業レベルは明らかに落ちている。
まともに計算することも、字を読むことも出来ない。
もっというと、親はどうなのか?というレベル。
そのくせ、学校の先生には成績が低いのは学校の責任と言ってくると先生も大変である。

時代は追いついてくる者のみを受け入れる。
学校とて、同じ事であろう。

今回、外国籍先生の意見を聞くと、日本の修学環境の歪さを理解する事が良くできる。
でも、当の日本人教師たちは一生懸命やっているだろうし、子供たちもそれなりに一生懸命だろう。
問題なのは、その一生懸命している「モノ」が通用するのかしないのか。
さらには、通用しないと気付くのかどうか。

外から見た他者からの視点というのは気付きを与えてくれる。
自身では精進しているつもりでも、他者から見られたら滑稽に映る事も、無駄な事も、多くある。
自己満足で終わることなく、他者からの意見も素直に受け入れ、自身の糧にしていく必要があると痛感する。

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