お盆のタイミングで1年ぶりに実家に帰った時の話。
母親から「あんたどうせ、トイレのこと気づいてないでしょ?」と聞かれたので
「え…ひょっとして水の勢いが違うとか?」と返答すると
「やっぱりね…全部新品で色も形も全然違うんだけど」と見透かされた様に言われた。
アハ体験という言葉は皆さんよくご存じだと思う。
答えを知ると「なんで気づかなかったんだ??」となる、
徐々に画像の一部の色が変わったり消えたりする、あれだ
(※学術的には少しニュアンスが異なるらしいが)。
どこかに注目すると別のことを処理できなくなる脳の構造を
うまく利用しているらしく、マジックに近いのかもしれないが、
静止画の中で「今まさに動いている」場所になぜか気づけない。
母親からトイレの話を聞いた瞬間に私の脳も活性化したかもしれない。
一方で、周囲の変化やちょっとした違和感にすぐ気づける人もいる。
時に、当事者すら意識化できていないような違いさえ指摘することがあり、
「なんでそれ、わかったの?」と皆が驚くような鋭さを持っている。
この違いは何かと言えば、「常」を知っているかどうかという事になる。
常とは「本来そうであるはずのもの」「筋としてそうなるはずのこと」を指し、
例えば、マジョリティだったり、平均値という意味合いとは大きく異なる。
あくまでも、個やシチュエーションそれぞれに「常」が紐づいており、
同じ態度でもAさんならいつも通りだし、Bさんの場合は「変だぞ」となる。
たいていの人間は自分以外の「いつもの日常」にはあまり興味はなく、
何かトラブルが起こったり、大きな変化があった時に初めて目を向ける。
だから、いつもの状態(常)が何なのかを把握することができない。
常を知るには「何気ない日常からよく観察すること」に尽きると思う。
「君は見ているだけで、観察をしていない。 見る事と観察する事ははっきり違うのだよ」とは
シャーロック・ホームズのセリフだが、人間にとってただ眺める事はたやすいが、
その情報を脳に送ることはとても難しいことを表している。
冒頭のトイレの話もそうだが、観察というのは何気ない日常において、
「ほんの少しでも自分の思考や意図を入れ込むことができるか?」という意識の差だと思う。
毎日24時間365日、観察している人とそうでない人の差はあまりに大きい。
そこに気づかせてくれた母親の「息子を見る常」にも感謝をしたい。

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