古典と現代のバランスを取ること

「人生は短いから古典だけを読むべきだ」ということが岩波文庫のどこかに書いてあるそうだ。
なんとも極端な意見に思えるが、実は一理あるように思う。
数十年や数百年や数千年という時を経て生き残った古典は、本物であるということが実証されており、
皆に評価されたものだ。本に限らず、建築や工芸品などの芸術や、例えば茶道についても同じことが言えるだろう。

現代のものは、そういう時の試練を経ていない。現在、書店に並んでいる無数の本や、
たくさんの芸能人の中で、いくつ百年後に記録や記憶に生き残り、親しまれているだろうか?
そういうことを考えると、古くからあるものの方が、確実で、安心だと思われる。
本当かどうかをいちいち吟味したり、取捨選択する必要がない。目利きがきかなくても、
時間対効率の高いものを選択できる。

しかしながら、古典というのはエッセンスや髄が詰まっているものであり、いつの時代も求められるものを教えてくれるものではあるが、「今、現在、この世相で」何が求められているのかを教えてくれるものではない。

例えば、今、ドラッカーがブームだ。本格的に学びたい人は原著を読めばよいが、
「今、ドラッカーがどういうふうに受け入れられているのか」を知るためには、
特集本やテレビ番組の方が良かったりする。世相を読み解くには、例えば特集本などある程度浅いと言われているものの方が良い、と言った人がいて、なるほどと思わされた。
古典を摂取する時間と最新のものを取り入れる時間のバランスを取ることをルール化し、
最近は、古典を読んだら、現代的に適用するよう心がけるよう意識している。

能を大成させた世阿弥による『風姿花伝』には、こんなことが書かれている。
どんな下手な役者であっても、すばらしいことがあると見たなら、上手であってもこれを学ぶべきである。
……もしも下手の長所を目の当たりにしても、自分より下手な役者の芸を似せまいと思ういさかいの心があったならば、その心に縛られて、自分の欠点をも、きっと知ることはあるまい。(風姿花伝第三 問答条々より)

能の演者でなく、何にでも当てはまることではないだろうか。これなら、今日からでも使える。古典を読んだら、「良い話だったなあ」で終わらすのではなく、日常の中で活かすこととしたい。

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