先日、子どもが通う学校の学校公開日に行ってきました。
子どもたちが頑張ってる姿を見られるということと、
普段、立ち入ることの出来ない場所に入るということに高揚感を抑え切れず教室に向かいました。
教室に入ってまず思ったのは、「こんなに狭かったかなー。」ということ。
先生はパソコンを操作しつつ、プロジェクターとホワイドボードを駆使して授業を進めています。チョークの音や、黒板消しから香る匂いはなく、昔とは違うなぁ。と思いつつ。
ただ、子どもたちの表情を見ていると、家族に手を振ったり、急に真面目な顔になったり、
恥ずかしくて固まってしまったりと、昔と変わらないものがそこにはあり、何故かホッとしました。
時間はたっぷりあったので、折角だし、全学年の教室を見て回ってみようと考えました。
そこで、気づいたことがあります。
低学年や中学年の子どもたちは、家族が来てくれたことが嬉しくて仕方がない様子。
「見て!」「僕、答えられるよ!」「私、出来ているよ」
そんな気持ちが伝わってくるように、皆一斉に手を挙げます。
間違えることなんて気にしていない。とにかく自分を見てほしい。頑張っている姿を見せたい。
その姿は、とても眩しく誇らしく見えました。
一方で、高学年の教室に入ると空気が変わります。
家族が来ていることが恥ずかしい。積極的に発言したくない。
「全力でやらないことが、かっこいい。」そんな空気が流れているように感じました。
先生が問いかけても、教室には静寂が広がる。聞こえるのは先生の声だけ。
中学年の4年生と高学年の5年生の間には、私たち大人には測り知れない、
乗り越えるべき大きな壁があるのだと感じました。
そして、その姿を見ていて、ふと思いました。これって、社会人も同じなのではないか。
学校を卒業して社会に出る。最初は右も左もわからず聞く。
分からないことだらけで迷惑を掛けたくないから、素直に質問する。
聞く姿勢、学ぶ姿勢、理解する気持ち。人としての初々しさ。
ですが、3年・5年と経験を積み、少しずつ仕事ができるようになると、
いつの間にか手を挙げなくなっていく。学ぶ側から、教える側へ。
当然、立場は変わり、役割も日々変化していくから。
でも、本当にそうなのでしょうか。
教える側になったとしても、聞くこと。知ること。学ぶこと。
その本質はどの環境でも何も変わらないはずです。それなのに、
「こんなこと聞いたら恥ずかしい。」「今さら質問できない。」
「失敗したらどうしよう。」そんな見えない壁を、自分で作ってしまう。
そして、気付けば手を挙げることすらできなくなっている。
改めて感じた事は、手を挙げるという行為は、実はもっとシンプルであってよいのではないか。
何かを聞きたいとき、話したいときだけではない。
困った時、悩みを聞いて欲しい時。そっと手をあげても良いのではないか?
「自分の存在を示し、自分を認識してもらい、周囲との差をうめる。」
たったそれだけのこと。
それなのに、年齢を重ねるほど、その権利を自ら放棄してしまう。
無意識な壁を自ら創造し、自分の可能性を小さくしてしまう。
『自分の存在意義の証明。』『新しいことに挑戦する気持ち。』『次の一歩を踏み出す勇気。』
学校公開で見た子どもたちの姿は、そんな忘れかけていた大切なことを思い出させてくれました
初心にかえり、明日から誰かに伝える誰かに求める手を挙げてみませんか?
