「答えらしきもの」は「答え」ではない

長男が4月から小学生になり、文字通り保育されていた時代から、
少しずつ自分で考え、行動する事が求められるようになった。
親としてもろもろ心配は尽きないが、
本人の成長を一番に考えた結果、あまり干渉しない事に決めた。
本人なりに、危険を感じたり嫌な思いをしたりするのが大事だと思うし、
そもそも親だって何が正解かもわからないから、
積極的に「何もしない事」を選択しているというわけだ。

我々は日常において科学技術の恩恵をこれでもかと受けている。
無意識に何かの答えや「流れ」の様なものを受け取って暮らしている。
ネット通販等ではリコメンドで自分が好きそうな商品が自動で出てくるし、
ハンドルから手を放しても車が運転できてしまう世の中。
これだけ技術が発展すれば、過去の事象や結果を積み重ねていき、
その分析から相当な精度(価値)を担保できるのだろう。
今世界を動かしているのは、まさしくそういうビジネスを展開する企業であり、
常に、そしてオートマチックに答えらしきものが提示される時代である。

初めから答えがわかっている状態というのは、
便利だけれど刺激も少ないので、結果として人の成長の機会を奪う。
そのうちきっと、寄り道やチャレンジを「無駄」と感じる様になるのだろう。
それは究極、何のために生きるかという大きなテーマにかかわってくるが、
もっと身近なところで「働く」という意識にも連動している様に思う。
働く事が幸せであるためには、主体性が不可欠であり、
仮に「わからない」「何もしない」という答えだったとしても
それが自分の思考や判断に基づくのであれば、主体的に生きている事になる。

未来は過去の蓄積だけで構成されているわけではないし、
技術の進歩は素晴らしいがそれに依存してはいけない。
自分が主体性を失わずに思考し、答えを追い続けることができる対象かどうか?
そういう軸で仕事を選ぶのも、間違っていない様に思う。

息子は今の所、小学校が楽しいと感じている様だ。
おぼつかないながらも頼もしい足取りを黙って見守っている。

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