「グローバル化」の解釈

先日、ある総合商社OBの方と話をする機会があった。
世界を飛び回り、ビジネスをされてこられた方の言う事は面白く、話す内容が豊かである。

話の途中に、「英語は出来ますか?」という質問を頂き、私は「いいえ」と答えた、
さらに突っ込まれて「何で出来ないのですか?」と聞かれ、私は「苦手な上に勉強していないので」と少し笑いながら回答した。
すると今度は「日本人は何で英語が出来ないのか?」と意見を求められた。
それに対して、「日本語を勉強しているからではないですか?」と質問で返した。
少し興味を持って頂いたようで、話が盛り上がった。
私自身の考えは、日本人の英語習得人口率が他国より低いのは「日本が優秀だから」と考えている。
植民地化もされず、他国の文化の真似をすることもなく、日本独自のカラーを発色し、在り続けてきた。
日本人は英語よりも何よりも守るべき「日本語と日本文化」があるからこそ、英語を後回しにしてきたと考えている。

昨今のグローバルというものに関して、少し違和感を覚えているのは自分だけではないであろう。
最近では、グローバル化に影響され、英語のレベルを日本全体で高めようという機運も高まっており、
小学校(幼稚園からも)から英語授業が平準化されるほどになっている。

以前から思っている事なのだが、グローバル化=英語力という認識は、誰がどう解釈したものなのか。
グローバルレベルで仕事をする上では必要不可欠なツールなのかもしれないが、このツールを使えることだけで、
グローバルレベルに通用する人物になり得るのであろうか。
残念ながらそうは思わない。
ツールが使えるのはあくまで前提であり、日本語だけのところを日本語と英語に置き換わっただけである。

では何をもってグローバルといえるのか。
自分なりの見解と受け売りで申し上げるのであれば、洞察力・俯瞰力が挙げられる。
語学もしかりだが、語学の背景にある文化を知らない方が非常に多い。
文化を知らずに浮ついた語学だけを使っているのであれば、それは本当の意味での語学をマスターしていないと感じる。
留学する方も多い昨今、留学経験者や留学希望者に「目的はなに?」と聞いてみたところ、
やはり回答は曖昧であり、挙句の果てには「英語を勉強」という回答が最も多い。
前述の通り、時代背景や文化を知らずして表層的な語学だけを学ぶのであれば、日本にいながらでも十分勉強できるレベルである。
残念ながら、その様な意識でいった留学は時間とお金の無駄である。旅行の延長でしかない。
そういうと「海外で自分も苦労した」という反論が聞こえてきそうだが、それはそうだろう。
日本語が通じない非日常に身を置くことを「英語を習得する」という極めて弱い動機で行っているのであれば、
苦労も一際大きいだろう。

論点を翻すと、この国の教育カリキュラムは優秀である。
ただ、残念ながら、親や大人が教育の意図を理解しておらず、表面的に勉強を強いる環境にある。
これでは勉強をする意味すらわからず、学習意欲が低減するだけである。

英語も然りである。
授業に英語を取り込むのは決して反対ではない。
では、英語を勉強する理由は?英語はいつ使うのか?何でいまやるのか?
答えは、世界がグローバルスタンダードになってきているから、英語が世界の共通言語だから。
この程度の動機づけでは、やはり真のグローバル化には程遠い。

先を見通す事も大事であり、グローバルという目線は全く反対ではない。
ただ、意識が先々へ行き過ぎていて、足元を固めていない組織や風土が多いように感じる。

私自身も、しっかりと足固めを行い、先のステップを踏んでいきたい。
そのためにも、しっかりと礎を築き、着実な変化を自身の課題にすることをルール化としていきます。

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