先日、公職選挙法改正案によって選挙権を18歳以上に引き下げる法案が成立する見込みであるとニュースになっていました。
改正案では、飲食・喫煙などは20歳以上とする民法と、少年法の年齢にかい離がある為、合わせて議論すべきであると指摘されていました。
おりしも、その翌週に川崎市の中学生が17歳・18歳の少年たちに殺されるという残虐な事件が起こり、少年法の適用年齢の引き下げについてあちこちで議論が飛び交っています。
そもそも少年法の目的は「少年の健全な育成を期す」「非行のある少年に対して性格の矯正及び環境の調整に関する保護処分を行う」となっており、もともとは刑罰を科すことではなく、少年の更生なのです。
人間味のある法律だと思いますが、先に述べた川崎の少年刺殺事件や昨今の名大生事件等現代の残虐な事件を見たときに、果たして、この少年法が理想とする効果があるものなのだろうかと
疑問を持たずにはいられません。
一方、少年法に守られ本当に立ち直り、その後の人生を真っ当に歩んでいる若者も
多くいるに違いないと思うと、非常に難しい問題であると思います。
しかし、あくまで個人的な考えではありますが、取り戻すことが出来ない大切な命を奪うことは、
年齢に関係なく、罰せられるべきだと思います。そこに情状酌量の余地があるかどうかが議論になるべきで、
未成年だからということで守られることが前提なのはいかがなものかと思います。
「挨拶はしっかりすること」「自分が嫌なことは他人にしてはいけない」等は親から教えられて、
というか学校という集団生活の中で教わり、殺人はいけないことだと言うことも、
当たり前のように普通の人は善悪の分別が付きます。
しかし、普段の生活の中で、意外に「正しいこと」を見失ってしまっていることがあるのではないでしょうか。
例えば、朝の満員電車で目の前に妊婦さんが立っていた時、席を譲るべき瞬間ですが、つい寝たふりをしてしまったり、
社内で、後輩が間違った態度で顧客や上司に接していることに気づいても
「自分には関係がないから」とスルーしたり、etc…
損得勘定が「正しい」ということの「ものさし」になっていることが
少なくないように感じてなりません。
1つ1つは小さなことですが、一人ひとりのこの意識が、自分と他人の間に隔たりをつくり、
歪んだ人間関係を生み、そんな大人の世界を“リアル”と捉えて生きる子供たちがいる。
子どもは時代を映す鏡とよく言ったもので、見直すべきは少年法という法律よりも、
人としてのルールについてなのかもしれません。

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